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あなたが実装して欲しい銃を教えて下さい。 名前 コメント AR15、P90、89式、M134 -- サバゲーマー (2015-05-02 08 06 36) ↓バトルシップ=M14EBR、ベトナム=M16VN、クラーケン=ロビンソンXCRという認識でよろしいでしょうか。 -- ごぼうさん (2015-04-29 18 10 42) バトルシップ ベトナム PGM ASW AK12 サイガ ストライカー ベレスク クラーケン -- たいちゃん (2015-04-28 19 29 09) 核弾頭 -- 珈琲豆 (2015-04-27 23 47 38) M4がありまへん -- Son (2014-05-14 18 29 10) 火縄銃がほしいです。 -- 江戸サムライ2 (2014-05-10 22 38 39) ↓それ銃じゃないだろwww -- 老兵クリーパー (2014-05-10 12 43 50) 戦闘機実装してください -- 新米ゾンビ (2014-05-10 12 43 24)
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導入予定のプラグイン書いていきます。
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攻撃艦 12 空母 2 戦車戦車揚陸艦 3 陸軍 第一フェーズ 連合 14(攻撃艦12,空母2) 敵艦 8(揚陸艦2,その護衛艦6) 第二フェーズ 第一フェーズでの敵艦殲滅後、空母2隻からの航空機で上陸部隊用の土地確保のための攻撃を開始。 第三フェーズ 戦車揚陸艦3隻での上陸、陸軍による上陸演習開始 第四フェーズ 陸軍戦闘開始 第二フェーズの航空機での戦闘支援 歩兵敵味方多数 敵戦車 8 連合 21 第五フェーズ 拠点構築(豆腐) 全土に舞台を展開して終了 なお敵兵器はすべて武装無しの標的とする。また、分かりやすいように黄色での塗装を施したものとする。 この仮案をもとに今後詳細を決定、変更をしていきます。 フェーズ2の件 爆撃機を派遣する予定なんですけど、近くの島からも離陸させるというのはだめなんでしょうか。 -- SkyLink (2014-02-11 20 09 26) うーん、そこらへんは今後の協議にて決めたいので、とりあえずありの場合となしの場合を考えておいてください。 -- 笑笑笑 (2014-02-11 21 54 49) 陸上部隊の編成もいるなあ -- みのる (2014-03-05 19 02 13) 名前 コメント
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シチリア晩祷戦争 この項目ではシチリア晩祷戦争について説明しています。そのほかの企画については過去企画を参照してください。 この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(140年8月) System=ダイス シチリア晩祷戦争(しちりあばんとうせんそう、英 War of the Sicilian Vespers、統一歴140年-140年)は、シチリアの晩祷事件をきっかけに、シェラルド王国がトラキア・ローマ帝国租借下のシチリア島奪還をめざし侵攻したことで、両国が率いる機構のあいだで起こった戦争である。 シチリア晩祷戦争 目次[非表示] 1. 概要 2. 背景 2-1. トラキアによるシチリア租借 2-2. シチリアの晩祷事件 3. 開戦 4. 開戦後の経緯 4-1. シチリアの戦い 4-2. ナポリ軍団の反乱 4-3. 神聖ローマ=ビュザンティウム戦争 4-4. サレルノ・ベネヴェントの戦い 4-5. 第一次ローマ攻防戦 4-6. holynation独立戦争 4-7. イストリア戦線 4-8. 第一次ティレニア海海戦 4-9. ペスカーラ上陸作戦 4-10. 両都攻勢 4-11. ガリポリ上陸作戦 4-12. コンスタンティノープル陥落とモレラの離脱 4-13. モンカリオリの両王決闘 4-14. 第三次ローマ攻防戦 4-15. ナポリ撤退戦と第二次ティレニア海海戦 5. 終戦と講和 6. 影響 7. 関連項目 8. 参考文献 シチリアの晩祷事件 パレルモ講和会議 戦争 シチリアの晩祷戦争 年月日 2020年08月02日 - 2020年09月05日 場所 イタリア半島、シチリア島、ボスポラス海峡など 結果 戦前回帰。対モレラ、対HNはシェラルド勝利 交戦勢力 シェラルド王国 トラキア・ローマ帝国 アナトリア諸侯 尾鷲帝国 モレラ共和国 HolyNation 指導者・指揮官 エリックⅠ世 ユリウスⅥ世 エルンスト・ロシェシュタール グナエウス・コルウス・カエサル オイスタン・コルーメディ ラエティリウス・ユニウス・キンナ イーゼット大公 モレラ大統領 シーナン・オニール モレラ将軍 ヴィットリオ=アメデーオⅩ世 HN将軍 概要 シチリア島民の反トラキア反乱であるシチリアの晩祷事件が発生し、これをシチリア奪還の契機とみた神聖ローマ皇帝エリックが介入し開。神聖ローマ帝国とビュザンティウム連合との機構間戦争に発展した。シチリア島民は独立を望み、シェラルドのナポリ軍団と結びつき反抗したが、後により民主的なトラキアへ靡きBU軍をナポリへ率引き入れた。これに対しエリックは大陸軍を引き連れ撃退を図るも、HRE領サヴォイア王国で元holynation王太子ヴィットリオが独立反乱を起こしたため、ローマの救援に失敗しBU軍がローマを占領した。その後陸海で一進一退の攻防が続き、膠着の打破を図りシェラルド=アナトリア軍はBUの一角モレラ共和国を攻撃した。多大な犠牲を払いコンスタンティノープルを占領すると、モレラとは早期和平が実現した。また、モンカリオリの両王決闘でエリックがヴィットリオを破るとHN戦線も終結し、トラキアが取り残され一転し劣勢となった。トラキアの背後でアフリカ大戦が発生すると、トラキア軍はシチリアへ撤退したが、シェラルドもまた背後で東欧戦争が発生し、追撃が叶わなかった。両軍はカラブリアとメッシーナで睨み合ったまま膠着し、そのまま和平となった。パレルモ条約が締結され、シチリアはトラキアへ、ナポリはシェラルドへ。と、戦前の状態へと回帰した。 緑がシェラルド=アナトリア同君連合、黄色がトラキア・ローマ=尾鷲同君連合、橙がモレラ共和国、水色がサヴォイア王国、灰色は教皇領。中央の赤色が争点となったトラキア領シチリア 背景 トラキアによるシチリア島租借イタリア半島はかつてのローマ帝国の中心地であり、ローマの後継を自称するトラキア・ローマ帝国、holynation、そして神聖ローマ帝国を率いるシェラルド王国の間で係争地となっていた。135年、シェラルド王国はスイス継承戦争に端を発するholynationとの戦争(半島戦争)に勝利し、イタリアの大半を手中に収めた。しかし137年、神聖ローマ帝国とレグルス帝国の間に戦争が起こると(第十次十字軍)、その隙にシェラルドの属国となっていたholynationの後継国家であるサヴォイア王国が、イタリアの島嶼や都市を各国に売却してしまった。シェラルド軍や皇帝エリックはアナトリアにおりこの動きを阻止できなかった。エリックは中華連邦のナポリ、トンガ帝国のカラブリアなどを外交努力によって回収したものの、トラキア・ローマ帝国のシチリア島については交渉がまとまらなかった。両国は106年のトラキア・ローマ皇帝ユリウスⅥ世とシルビア・イェリングの婚姻以来33年間にわたり同盟を維持していたが、シチリア島及びイタリアを巡り関係が悪化。第三次欧州大戦の勃発時にトラキア・ローマ帝国が参戦要請を拒否すると、遂に同盟は破棄された。 神聖ローマ皇帝エリック1世およびトラキア・ローマ皇帝ユリウス6世と皇后ソフィア・イェリング シチリアの晩祷事件トラキア・ローマ帝国がビザンツ帝国の旧領回復を目指し、エジプトの尾鷲第一帝国に侵攻したビザンツ・エジプト戦争は、139年にアレクサンドリアが陥落し終結した。ヒュペリオン条約によってトラキア・ローマ皇帝ユリウスⅥ世が尾鷲皇帝を兼ねると、尾鷲帝国はトラキア・ローマ帝国の同君下位国となった。この戦争中に莫大な戦費、物資を必要としたトラキアは、シチリア総督に任命していたバッシウス・パウリヌスに命じ、シチリア島全土からの徴発を行った。この指示自体は戦争税としては決して他国と比べ多過ぎるようなものではなかったが、パウリヌスは違法に徴発額のを嵩増しし、上前をハネていた。戦後にこのことが明るみに出るとトラキア議会は紛糾した。しかし時既に遅く、シチリア島住人の間では反トラキア感情が爆発した。各地で抗議デモが起こり、頻繁に暴動へ発展した。トラキアは国家憲兵隊を派遣し沈静化を図ったものの、多数の死傷者を出した。中でも最大の暴動は3月30日にパレルモで発生した。この日はシチリア島の住人が信仰するC教の復活祭の日であり、多数の市民が教会前で抗議集会を行っていた。そこに現れた国家憲兵隊の一人が集会を解散するよう命じたところ、教会の晩祷の音を合図に暴動が発生した。トラキアの国教はローマ神教であり、憲兵隊がC教の風習に無遠慮な振る舞いがあったことが原因とされている。 シチリア島民を弾圧するトラキア国家憲兵隊 開戦 神聖ローマ皇帝エリックのシチリア侵攻トラキア政府は暴動鎮圧の為に正規軍1万人を派遣したが、このときシチリア島の対岸、ナポリのカラブリア市に皇帝エリックと親衛隊、さらにシェラルド軍第4軍団が終結していた。C教徒の保護を掲げるエリックはシチリアの晩祷事件を好機と捉え、シチリア島の再征服に乗り出した。8月3日、エリック及び神聖ローマ帝国はトラキア・ローマ帝国及びビュザンティウム連合に対し宣戦布告し、カラブリアの対岸メッシーナへ侵攻を開始。現地の親シェラルド貴族の手引きでマルシアル元帥麾下の第4軍団に橋頭保を築かせると、続々と上陸。エリック自身もシチリアへ降り立った。トラキア軍は暴動鎮圧の為シチリア全土に広く薄く分かれており、この突然の上陸を防ぐことができなかった。 シェラルド軍のシチリア上陸 開戦後の経緯 シチリアの戦い上陸したシェラルド軍は首都パレルモを目指し進軍。また、各地に散らばるトラキア軍を各個撃破すべく、軍を分散させた。トラキア軍派遣軍司令官オクタウィアヌスは水際防衛の為シチリア東部の都市カターニアの部隊を向かわせ、両者はトロイーナで交戦した。本戦争における最初の両軍の本格的な戦闘である。トラキア軍はトロイーナで時間を稼ぎ、終結を待つ作戦をとったが、しかしシェラルド軍の予想以上の行軍速度の前に破綻した。欧州の機動戦への慣れの差もあったが、トラキア軍は行く先々でシチリア島民のゲリラ戦に苦しんだ。後退したトラキア軍は各都市での籠城戦に切り替えたが、パレルモを除き早期に陥落した。オクタウィアヌス麾下のトラキア軍はパレルモで籠城していたが、6日には事情が変わってきた。パレルモ市民の抵抗運動が激化し、ただでさえ欠乏している物資に放火されたり、夜間に兵士が襲撃にあうなど、最早籠城など不可能な状況であった。止む終えずトラキア軍はパレルモから進出。前方のコルレオーネに陣を敷いた。トラキア軍は憲兵隊や警察官まで動員し抗戦したものの、物量差は覆せず敗戦した。士気に限界がきていたところに、シェラルド軍十八番の騎兵突撃は抜群に効いた。トラキアのシチリア派遣軍はその殆どが戦死、あるいは捕虜となり、シチリア島の戦いはシェラルドの完勝であった。 シチリアでの戦闘はシェラルド軍が優位に進めた。 ナポリ軍団の反乱HRE皇帝エリックは占領したパレルモへ入城した。エリックはシチリアの反乱を異教の支配者に対するC教徒の反乱と捉えており、HREの下に回帰することを望んでいると信じて疑わなかった。しかしこれは大きな過ちであった。反乱戦争の中で、シチリア島民の要求はこれがHRE及びシェラルド王国を窮地へ陥れることとなる。4日、ノルマンニ宮殿でエリックのシチリア王位の確認と同地のHREへの回復が宣言された。しかし、その帰途エリックはパレルモ市民からの銃撃にあった。銃弾は彼の帽子を飛ばしたに過ぎず、犯人はただちに親衛隊により射殺されたものの、これがきっかけとなりシチリアは再び反乱に包まれた。エリックは鎮圧を軍に命じたが、これは戦場たる島内で軍を分散させる悪手であり、トラキアの二の轍を踏む判断であった。翌5日、反乱はナポリへ飛び火した。パリの参謀部は、ナポリ人で構成され、自治権と引き換えに現地の守備隊となる、シェラルド軍のナポリ独立軍団に反乱の鎮圧を命じた。軍団長のジュゼッペ・ガルボ将軍はナポリでこの命令書を受け取ると、伝令兵を惨殺し、シェラルド軍を離反し反乱軍へ付く決心をした。彼はナポリ各地の反乱軍を糾合し大軍を作り上げ、市民兵や農民兵の集団だった反乱軍に正規軍の武器を齎した。大パニックと化した参謀本部を尻目に、ナポリ軍団は半島を南下した。 HRE皇帝エリック 神聖ローマ=ビュザンティウム戦争ナポリ軍団は皇帝軍を撃破すべくシチリアへ向かったが、これを猛追したのがローマにいたロシェシュタール元帥麾下のシェラルド軍イタリア方面軍だった。ロシェシュタールはローマを発つと不眠不休の強行軍でナポリ市に到達。半数を包囲に残しさらに南下してナポリ軍団にコゼンツァで追いついた。両軍の戦闘は、歴戦の元帥が巧みな指揮でナポリ軍団を撃破し皇帝を救ったものの、長距離行軍の疲労で追撃が叶わず、ナポリ軍団の大部分は半島東部へ撤退した。パレルモの神聖ローマ皇帝エリックは、情勢の変化を受けて、指揮を執るべくフランス本土へ帰還した。少数の守備隊がシチリアに残ったが、トラキア兵の死体から武器を奪ったシチリア島民の襲撃により、まもなく陥落した。島民はパレルモのマッシモ劇場に戦争遂行のための臨時評議会を立ち上げ、反乱の組織化を目指した。しかし、頼みの綱のナポリ軍団が目前で敗北したことを知ると、協議の末、これを伝えに来たガルボの密使に評議会としての結論を伝え、ガルボの下へ送り返した。シチリア評議会とナポリ軍団は、共にHRE、BU双方を敵に回すのは困難との結論で合意し、独裁的なHRE皇帝でなく、議会民主制を尊重し尾鷲の統治で実績を示したトラキア軍との交渉を選んだ。ガルボは全権大使としてバーリ市でトラキア使節と会談すると、トラキアのもとでナポリ、シチリアが自治権を有することで合意。ナポリ軍団もトラキア軍へと下り、トラキア軍は尾鷲から集めた義勇兵と共にナポリへ出兵し、モレラ共和国がBU加盟国として参戦した。これを受けてHRE皇帝エリックはモレラと国境を接する、自身が王位をもつアナトリア王国に参戦要請を出し、これにより様相はトラキア率いるBUとシェラルド率いるHREとの、2勢力による全面戦争へと移行した。 トラキアの植林事業は尾鷲人に歓迎され、快く義勇兵派遣に同意した。 サレルノ・ベネヴェントの戦いナポリ軍団を取り逃がしたロシェシュタール元帥は、トラキア軍のイタリア本土上陸を察知すると内線作戦による機動戦による各個撃破を目指しナポリを直ちに出立し、サレルノの山間でビュザンティウム連合軍に強襲攻撃を仕掛けた。突然の攻撃に連合軍は混乱状態に陥り、戦列の右翼が一時崩壊寸前の状態にまで陥った。すかさず、シェラルド軍は軽騎兵による騎兵突撃を敢行し、片翼包囲を図ったものの、後詰めの尾鷲義勇兵によるファランクスに阻まれ撤退、戦いの趨勢をは振り出しへと戻った。一方、ナポリ南方に上陸した第4軍団「マルス・インウィクトゥス」は上陸地点近くにに大量のダミー戦車と物資を残し、大軍が集結しているかのように偽装し、シェラルド軍の注意が南へ集中している所を大きく迂回し北方からナポリを強襲した。途中、ベネヴェントでジュノー将軍指揮下の師団級部隊と接敵したものの、物量のものを言わせ撃破、ナポリ目前へと迫った。後背を脅かされる形となったロシェシュタールは不利を悟り戦場を撤退。その後、疲弊した方面軍ではナポリの防衛も困難と判断し、教皇領のローマ市まで後退した。 サレルノの戦い。 第一次ローマ攻防戦BU軍はローマを包囲した。HRE皇帝エリックはイタリア方面軍に対し、ローマ市の死守命令を下した。方面軍は籠城戦でよく耐えており、この間に大陸軍が援軍に駆け付ける手筈であった。しかし、情勢は背後で起きたある事件によって急変する。背後サヴォイアでholynationが独立戦争を開始したためだ。北イタリアをローマへ向け行軍中だった大陸軍は、突如として南北の敵に包囲される形となってしまい、HN軍への対処によりローマへの応援は困難となった。この情報が伝えられたローマでは、教皇庁の脱出作戦が行われた。世闇に紛れての逃避行は、これに気づいたBU軍の総攻撃との激戦となった。この戦闘は方面軍が勝利し、教皇庁はミラノへ逃れたものの、方面軍の余力は尽きていた。続く第二次総攻撃では、トラキア軍が精鋭第6軍団を惜しみなく投入したことで多くのシェラルド兵が戦死した。HREの聖都は遂に陥落した。 聖都は炎に包まれた。 holynation独立戦争かつて半島戦争でシェラルド王国と戦い敗北し滅亡。その後領土もわずかなサヴォイア王国として復活した元holynationでは、シェラルドからの独立運動も盛んであった。追放された元王太子ヴィットリオはこうした動きを耳に入れ、密かにマルタ島を脱出しサヴォイア王国へ密入国した。シチリア戦争が始まると、ヴィットリオは武装親衛隊を率いてトリノの宮廷へ乗り込みクーデターを決行。女王マティルディを殺害し(ヴィットリオの意図に反した親衛隊の暴走であると後に述べている)、HN王として即位を宣言。シェラルド王国に対し独立を求める宣戦を布告した。このとき、シェラルドの大陸軍は、ローマへむけ山と川とに挟まれたアレッサンドリア街道を長大な縦列で行軍しており、これを好機とみたヴィットリオは、サヴォイア軍や周辺の北イタリア諸侯から集めた義勇兵との連合軍を率いトリノを出立。最後尾を行く大陸軍第Ⅱ軍団へアスティ近郊で奇襲攻撃をしかけた。この戦闘は、第Ⅱ軍団が粘り強く抵抗したことで、準備期間に乏しく寄せ集めであったHN軍の攻勢を挫き退却させた。HN軍はトリノへ退却したが、天然の要塞都市トリノへ逃がしたくないエリックは、止む無くローマを諦め大陸軍を率いて転進した。無理な追撃はトリノへ続く山道でのゲリラ戦にあい被害を出したが、遂にトロファレッロで追いついた。HN軍はやむを得ず少なくない部隊を殿に残し、彼らの活躍によって辛うじてヴィットリオと本隊はトリノへ逃れた。市外戦を制した大陸軍は、トリノ包囲軍を残し再びローマへ進軍した。 第Ⅱ軍団はよく持ちこたえた。 イストリア戦線BU軍はローマを占領したものの、消耗も大きく一時停止した。その後、さらなる北上を試みたが、その間に、かつて教皇庁脱出作戦の際に、密かにこれに紛れ脱出したイタリア方面軍の一部が、市民や聖職者らの協力のもとローマ北部に長大な塹壕線を築いていた。BU軍は止む無く対抗して塹壕線を築いた。エリック率いる大陸軍も到着したが、お互いの強固な陣地の突破は難しく、数度の戦闘の末、膠着状態に陥った。これを打破するべく、エリックは北イタリアからクロアチア経由でのトラキア本土攻撃の作戦を立て、大陸軍第Ⅳ、第Ⅴ軍団にこれを命じた。これをトラキアは航空偵察で察知し軍団を派遣したため、ストリアで新たな戦線が築かれた。両軍はトリエステで接敵した。この戦闘は、シェラルドの戦列歩兵や胸甲騎兵とトラキアのローマ・カタクラフトとの、非常に奇妙な対決となった。緒戦は射程に勝る銃兵戦列が、ローマ兵を削りながら漸進した。しかし、鉄の結束を誇るカタクラフトの隊列は崩れず、いよいよ銃剣突撃が必要な間合いにまで迫ったものの、近接戦により優れた相手への突撃は不利と判断され、行われなかった。対するローマ側も、反撃のため少しでも前進し隊列を崩せば、すかさずシェラルド騎兵が突撃してくるため、睨み合うほかなかった。結局、剣俊なイストリアでは迂回もままならず、こちらでも膠着状態となった。 軍事研究科達に「最も奇妙な陸戦」と言わしめた。 第一次ティレニア海海戦シェラルド軍がイストリアへの迂回を計画したように、BU軍も膠着打破の計画を立てた。ローマ塹壕線後方のペスカーラへの上陸作戦である。しかし、この情報もまた、ナポリ兵に紛れた間謀によって齎され、シェラルド軍はこれを阻止すべく、マルセイユの地中海艦隊へ出撃を命じた。BU軍も艦隊を出撃させ、両者はティレニア海で衝突した。今戦争発の本格的な海戦となった。シェラルド地中海艦隊は、戦列艦21隻及び補助のフリゲート艦からなり、指揮官はコルーメディ提督である。対するBU艦隊はトラキア海軍が主体で、その構成はローマ式の三段櫂船であった。シェラルド海軍は陸軍の栄華に対しいまひとつであり評価が低かったが、この海戦では砲性能差を活かし三段櫂船をことごとく撃破する大活躍をみせ、ティレニア海海戦をシェラルド軍の勝利へ導いた。BU海軍はアドリア海へ撤退した。この報告をうけたHRE皇帝エリックは地中海艦隊を称賛し、コルーメディ提督へアドリア海への追撃を求めた。コルーメディは狭いアドリア海ではガレー船の方が有利とこれを一度は断るも、皇帝命令には逆らえず渋々出航した。地中海艦隊はアドリア海へ乗り込み、BU海軍とふたたび戦闘を開始した。戦列艦艦隊は無風の内海で機動性を損ない、対照的にローマ・ガレー船部隊は自らの庭を縦横無尽に駆け巡った。ときには四方八方からのラムアタックにより沈没し、ときには接弦からの白兵戦で船ごと拿捕された。またたくまに地中海艦隊は壊滅状態となり、提督を乗せた旗艦含め、わずか4隻のみが辛うじてヴェネツィアへ逃げ込んだ。アドリア海海戦はBU軍の圧勝となり、エリックは落胆した。 軍事研究家達に「最も奇妙な海戦」と言わしめた。 ペスカーラ上陸作戦シェラルド地中海艦隊の壊滅によって、もはやペスカーラ上陸作戦を阻むものはなくなった、BU軍はこれを決行した。大陸軍は止む無くこれの防衛にデレッセル元帥の第Ⅴ軍団を向かわせ、ローマ奪還のための戦力をさらに減少させた。制海権の確保により、潤沢な海上支援を得たBU軍は、あっさりとペスカーラに橋頭保を築き、第Ⅴ軍団は苦戦を強いられた。それでも老練なデレッセル元帥は沿岸に堡塁を築き、大砲を並べ粘り強くBU軍を押し戻し続けた。しかし、BU軍が拿捕したシェラルド戦列艦から堡塁に一斉射撃を行うと、兵士の士気は大いに損なわれてしまった。元帥は沿岸での防衛を不利と判断し、第55連隊にローマ塹壕線のさらなる延長工事を命じた。BU軍は激戦の末遂にペスカーラ市を奪取した。しかし、第Ⅴ軍団の抵抗により、このころにはペスカーラ郊外までシェラルド軍の防衛線は伸びており、殆ど徒労に終わってしまった。むしろ、この地点はナポリ方面の本隊から分断されたウィークポイントとして、後々までBU軍の負担となってしまった。 アドリア海で拿捕された戦列艦が牙を剥いた。 両都攻勢ローマ、イストリアでの対トラキア戦線の膠着をうけ、HRE皇帝エリックは攻撃目標の変更を計画した。すなわち、アナトリア軍を動員して敵同盟国モレラを叩き脱落させようというものである。これは直ちにアナトリア王国へ通達され、軍事総督ハシュタウゼンの命でアナトリア軍及び現地に駐留しているシェラルド軍が国境へ動員されギリシャ方面軍となった。司令官にはフィッツカラルド元帥が任命された。この軍によるコンスタンティノープル攻勢と合わせて、ローマへの総攻撃も決定された。これらは両都攻勢と銘打ち大々的に行われた。しかし、両都ともに一度の攻撃で陥落するほど柔ではない。BU軍は防衛に成功した。アナトリアとモレラは、コンスタンティノープルやエーゲ海諸島の帰属で揉めながらも、共通的レグルスやShVVsの脅威の前に、お互いに海軍戦力は出し渋った。 フィッツカラルド元帥は猛将で名を馳せた。 ガリポリ上陸戦第一次コンスタンティノープル攻撃が失敗に終わり、ギリシャ方面軍司令官フィッツカラルドは正面突破は不可能と判断し、ガリポリ半島へ上陸しての迂回、そしてコンスタンティノープルの包囲を上奏した。これを皇帝エリックは承認し、作戦は実行に移された。第一次ガリポリ上陸戦は、日の出と共に攻撃が始まり、これは夜間まで続いた。モレラ軍陣地からの無数の砲弾や銃弾の嵐の中、シェラルド第Ⅷ軍団は甚大な犠牲を払いながらも辛うじて僅かな橋頭保を築き、アナトリア軍と共に再三の突撃を敢行した。最終的に、モレラ軍のいくつかの塹壕を奪取したものの、日暮れには天候が悪化し、あまりに消耗も激しかったため最初の橋頭保地点まで後退した。モレラ軍もまた激しい砲撃船により補給の限界を迎えており、大規模な反撃は行えなかった。モレラ軍が奪回した塹壕は身元不明の死体で埋め尽くされており、この日の戦闘は後に「ガリポリの骨ミキサー」と揶揄された。天候の回復を待ち、第二次攻勢が始まった。この間にモレラ軍は補給を回復し、移動弾幕射撃を用いた反抗作戦に出るも、東部やイズミル方面から続々と引き抜かれ送り込まれて切るアナトリア軍の物量の前に押し返され失敗した。また、この戦闘で予備弾薬を消耗したモレラ軍は劣勢を強いられた。この日の戦闘で、オドラン大将麾下のアナトリア第Ⅰ軍は、まさに命知らずな突撃を見せた。いくら砲撃の手が緩んだとはいえ、モレラ軍の強固な塹壕と銃弾の弾幕は幾度となく第Ⅰ軍を押し返した。しかし、それでも士気高く突撃を繰り返す第Ⅰ軍の前に、遂にモレラ軍は内地への撤退を決断した。モレラ軍の塹壕内にも死体が積み重なり、最早防衛どころではなくなっていた。その後、フィッツカラルド元帥は予備のシェラルド軍を率い北上し、モレラ軍の小部隊を撃破しつつ、遂にコンスタンティノープルを包囲した。HRE皇帝エリックは「アナトリア兵。彼らこそ最も勇敢な男たちだ、ということを、臣民の誰もが知らなければならない」とその献身を絶賛した。 強固なモレラ軍陣地への突撃は多くの戦死者を出した。 コンスタンティノープル陥落とモレラの離脱モレラ軍はアナトリア=シェラルド軍を追い出すべく散発的に攻撃したが、どれも失敗に終わった。遂にコンスタンティノープルへの第二次総攻撃が始まった。このときの様子を、当時のコンスタンティノープル市民は「大砲の音が三日三晩鳴りやまなかった」と回顧した。そのような猛攻の前に、遂に千年帝国の首都の防壁も陥落した。また、同時期に、フィッツカラルド元帥は先の上陸戦に味を占めエーゲ海諸島への上陸も計画し、手始めにレスボス島へ軍隊を派遣した。この上陸作戦は成功し同島を占領。さらに、停泊していたモレラ艦艇数隻を拿捕するなど大戦果を挙げていた。こうした状況から、モレラ大統領はフィッツカラルドへ休戦協定を求める使者を送った。こうして、HRE=モレラ間で、コンスタンティノープルの和約が結ばれた。シェラルド=アナトリアは優勢であったが、モレラの早期離脱及び戦後の防共、防レ協力のため、寛大なものであった。モレラに求めたものは速やかなシチリア戦争からの離脱、そして占領したレスボス島と、同島で拿捕した艦艇の引き渡しに限られ、これに同意し両国間の戦争は終結した。これによって、戦線全域にわたり、少なくない数を担っていた同盟国から取り残されたトラキアは劣勢に立たされ、モレラを強く非難した。 コンスタンティノープルの和約。 モンカリオリの両王決闘コンスタンティノープルの和約と同じころ、HN暫定首都トリノでは、続く包囲戦により飢餓が発生しはじめていた。包囲にはリュッシュモン元帥麾下の大陸軍第Ⅰ軍があたっていたが、トリノの攻めづらい立地、また戦力の多くをローマやイストリアの戦線に引き抜かれていたこともあり、攻めあぐねていたため、包囲戦は長期化していた。ヴィットリオはBU軍の奮闘を頼りに籠城していたが、日に日に悪化する市民の健康に心を痛めていた。そこにモレラ離脱の報が届くと、限界を察し、最後の可能性に賭けることを決断した。翌日、トリノとポー川を挟んで対岸の都市であり、シェラルド軍陣地であったモンカリオリへ、ヴィットリオが単身で現れた。彼が指揮官リュッシュモン元帥に要求したのは、HRE皇帝エリックとの一騎打ち、つまり決闘であった。決闘の条件は、ヴィットリオが勝利すればHN(サヴォイア)はシェラルドから独立し、和平を結ぶ。エリックが勝利すれば、サヴォイアはシェラルドへ併合される。というものであった。いずれにせよHN戦線を早期終結させられる。という打算とは関係なしに、エリックはこの気概を買い決闘を受けた。場所はモンカリオリ城の中庭に決まった。エリックは愛用のサーベル、かつて初陣であったポーランド戦争において、彼が初めて殺した敵兵であったコサックから奪った記念すべき戦利品を手に。ヴィットリオは追放の際唯一携帯が許された、父の形見でもある、サヴォイア家に代々伝わる宝剣を手に向かい合った。公証人ド・フルーリ枢機卿のピストルの音を合図に両者の愛馬は歩みを始め、10歩を数えた頃には最高速度に達した。その瞬間、両者は交錯した。宙を舞うは二つの影。それが方やエリックの帽子であり、方やヴィットリオの頭部であることを観衆が理解するのに、時間はかからなかった。エリックは13歳の頃から騎兵として最前線で戦ってきた生粋の軍人皇帝であり、優勢は明らかだった。それでも臣民の為に、自らと同じように命を懸けた若き青年の勇気を湛え決闘を受け、一撃で苦しむ間もなく首を飛ばした。エリックはフルーリにミサをあげさせると、遺体を丁重に包み、ヴィットリオの従者へ引き渡した。トリノ市は降伏したが、ヴィットリオの勇気に敬意を払い、HN軍人は望むならばナポリのトラキア軍陣地へ逃れることが許された。 グロ注意 第三次ローマ攻防戦長らく膠着が続いたローマ戦線だが、ここにきてシェラルド軍はトリノの降伏により第Ⅰ軍がローマ戦線に合流したのに対し、トラキア軍はモレラ軍の撤退によって戦力が減少した。これを好機とみたエリックは、ローマ戦線銭機に対し総攻撃を命令した。今戦争三度目となるローマ攻防戦が始まった。ローマ占領以後も同地で戦線を支えた歴戦のトラキア第Ⅵ軍団はここでも粘り強い抵抗を見せ、ローマ市を防衛した。しかし、長大な戦線に対し戦力が不足しはじめ、遂にデレッセル元帥の第Ⅴ軍団がペスカーラを、ウールップ元帥の第Ⅶ軍団がティボリを占領し、戦線に穴が開いた。ローマから戦線の指揮を執っていたトラキア軍スカエウォラ大将は、遂にローマの防衛を断念し全軍へナポリへの撤退を命じた。長大な戦線からの総退却は、トラキア軍を追撃戦による殲滅という未曽有の危機に曝したが、大陸軍はこれを追うことができなかった。同時期に中華連邦社会主義共和国率いるシルカグラード包括軍事協定軍が、HRE領であるドイツへ侵攻したためだ。皇帝エリックはこれを迎え撃つべく大陸軍を率いドイツへ転戦せざるを得ず、追撃の為皇帝からイタリア戦線の指揮権を引き継いだウールップ元帥には、わずかに二個軍団とイタリア方面軍の残余、そして北イタリア諸侯からの徴兵軍のみが残された。足並みの揃わない追撃戦はあまり成果が出なかった。しかし、こうした事情はトラキアの背後でも起きていた。レグルス帝国が引き起こしたアフリカ大戦の勃発により、同君連合下のエジプト国家尾鷲帝国が攻撃を受けた。イタリア戦線との二正面作戦は困難と判断され、軍部は第Ⅵ軍団はじめ主力軍をまわすべく、彼らをナポリから撤退させる判断を下した。半島のトラキア軍は、一路上陸地点バーリ市への撤退を開始した。 遂にローマは奪還された ナポリ撤退戦と第二次ティレニア海海戦ウールップ元帥はローマから南下しナポリを占領したが、既にトラキア軍は既にナポリを発っていた。しかし、このとき両軍の距離はそこまで離れておらず、撤退戦を指揮するスカエウォラ大将は、ウールップ軍の予想以上の行軍速度をおそれ、愚直にバーリへ向かうのはリスクが高すぎると判断した。トラキア軍の進路はカラブリアへ変更され、目指すはシチリア島となった。ウールップは追撃にあたり充分に偵察を送り出してはいたが、これらはナポリ人ゲリラたちによって阻害され、トラキア軍の性格な居場所や退却先がなかなか掴めなかった。それでもバーリ方面にトラキア軍がいないことがわかると、カラブリアへあたりを付け強行軍で追いすがった。次第にトラキア軍のシチリア退却が各所に伝わり始めると、シェラルド地中海艦隊は再び出撃要請を受ける。カラブリアとシチリアは海峡を隔てており、退却には海上輸送が必須であった。これを巡り、シェラルド地中海艦隊とトラキア艦隊は、最後の海戦へ臨んだ。第二次ティレニア海海戦である。地中海艦隊は先のリベンジにこそ燃えてはいたものの、時間が足りず戦力を回復できていなかった。艦隊はアドリアの敗残艦と、サヴォイアから徴収したわずかな戦列艦、そしてジェノバやニース、マルセイユらで徴発した漁船まで含まれた寄せ集めであった。これでは第一次ティレニア海海戦のような華々しい戦果はあがらず、順当に敗北しツーロンへ逃げ込んだ。しかし、この間はトラキア軍はカラブリアで待機せざるを得ず、ウールップ軍はすぐそこまで迫っていた。トラキア艦隊は大急ぎで軍の輸送を開始した。全兵士の収容が完了した頃、郊外から大砲の音が轟いた。トラキア殿軍とウールップ軍とが接敵し、戦闘を開始した音だった。彼らは奮戦し、辛うじて輸送船が安全に港を離れるまで時間を稼いだ。彼らは全員が戦死か捕虜となったが、ウールップは勇敢さを湛え彼らを厚遇したという。このときの捕虜の一人は後に回想録を残し、「ウールップは港を去り小さくなってゆく船影を見つめ、悔しさから帽子を叩きつけていた。」と綴った。 帽子を叩きつけるウールップ元帥 終戦と講和 シチリア撤退戦以降、両軍は海を挟んでの睨み合いが続いた。お互いに戦争での消耗が激しく、さらに背後での戦争に忙殺されていたため、これ以上の戦闘に消極的になっていた。かねてよりローマ戦線の膠着を受けてトレントで停戦案をめぐる協議が行われており、折り合いがつかず難航していたが、ことここに至り、戦線が戦前へ戻ったことで両国は和平に前向きになった。両帝の意向を受け、トレント会議で作成された和平案は合意に至り、条約締結にふさわしい地へ届けられた。今戦争の契機となったシチリアの晩祈祷事件の地、パレルモである。トラキア皇帝が東欧戦争の指揮で出席できないエリックに代わり全権使節として訪れたヨーデリンゲ主席国務大臣を迎え、パレルモ講和会議が開かれた。条約の内容は戦前回帰で合意された。すなわち、シチリアはトラキアへ、ナポリはシェラルドへ、というものである。8月25日、正式にパレルモ条約が締結され、シチリア晩祷戦争は終結した。また、トリノ降伏後にトラキア軍へ合流し、シェラルドとの戦争を続けていた残存HN軍は、トラキア艦隊保護の下、マルタ島へ逃れた。彼らはマルタに亡命HN政権を立ち上げシェラルドに抵抗した。シェラルド=亡命HN政権間の休戦は遅れて9月5日、ナポリ=マルタ間の海上で、シェラルド戦艦プリオール艦上で締結された。この後にサヴォイアはヴィットリオの遺言に倣いシェラルドへ併合され、HN独立戦争も終結した。 パレルモ条約調印式 影響 戦後、トラキア領シチリアでは、汚職疑惑により罷免された前総督パウリヌスに代わり、新たにアンナエウス・プブリコラが就任した。新総督は反省からシチリアへ寛大な自治権を与え、島民の懐柔に努めた。これとは対照的に、シェラルドはナポリの反乱勢力を徹底的に弾圧した。ナポリ軍団兵はトラキアへ逃れたが、残された反乱へ協力した市民などは、逮捕されたり、財産を没収されたりした。かつて独立ナポリ軍団への兵力供出と引き換えに与えられていた自治権は剥奪され、新たに送られたナポリ総督の統治下で冬の時代が続いた。後にメーレンカンプ元帥がマクシミリアーノⅠ世としてナポリ王位を与えられてからは彼の下で独自の政府が創設されたものの、シェラルドの隷属下にあることは変わらず、散発的に反乱が続いた。マルタの亡命HN政権は、変わらずイタリアの支配権はHNにありと主張し続けたが、肝心の担ぐべき主君も王朝も失っていた。これはイタリアへ野心を向ける周辺諸国の、イタリアへの請求権をめぐる継承戦争の火種として残った。戦争の結果は、講和内容を鑑みて痛み分けの引き分け、という見方が主流である。しかし、ナポリの奪回や対HN、対モレラにおける戦勝を理由にHRE、シェラルド=アナトリアの勝利と見る者もいれば、エリックの当初のシチリア奪回という目標を果たさせず、長期にわたりローマを占領した点から、BU、トラキアの勝利だ、と見る者もいる。かつて33年間にわたり続いたシェラルド=トラキア間の蜜月は、今戦争で完全に終わりをつげ、後のクリミア戦争などでも、両者は対立を続けることとなった。 戦後イタリア統治はミラノ勅令で定められた。 関連項目 ● 東欧戦争● アフリカ大戦● クリミア戦争 参考文献 ● ページ名● ページ名
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受験のため、しばらく活動を停止します。 大逐民国 대치쿠민국 의 페이지에 오신 것을 환영합니다! 大逐民国のページにようこそ! 大逐民国(通称:逐国)とは・・・ 朝鮮半島を実効統治する東アジアの共和制国家である。しかしながら38度線以北を北筑民主主義人民共和国と呼ばれる一党独裁体制の共産主義国家を名乗る集団に不法占拠されており、大逐民国歴1950年6月25日に武力による統一を掲げ、南侵を開始した・・・ 北筑民主主義人民共和国のページへ 同盟・条約等の申請はページ下部の申請用コメント欄にお願いします 同盟等の申請時は、下記の定義をしっかりお読みいただきますようお願いします +... 同盟国 国防に関する事柄が入っていること 友好国 平和的な内容であるかどうか。 お互いが協力できる内容かどうか 条約締結国 掲示した事柄に関してお互いが合意できる内容かどうか 国交の定義 外交関係を有しているかどうか !!注意点!! +... このページは 茶番好きによる 茶番好きのための リアル志向の かといって弾頭数などは全く気にせず 造形も微妙だが それでもなお ちょいとリアル志向を目指して 頑張っている ページです 弾頭数・水流装甲・弾種は ないものと思ってください 更新情報・お知らせ 2017/10/28 陸軍の装備を更新しました 2017/10/28 大逐日報・国防ニュースを更新しました ワールドデータが消えました・・・復旧に時間がかかってます。もうしばらくお待ちください・・・ 新兵器紹介のコーナー! 新兵器紹介のコーナーとは・・・新兵器紹介のコーナーである ご覧いただいた方々にはぜひ意見を書いてもらいたい次第です。てか書いてほしいです(切実) 準備中・・・ 各種連絡先 skype tiku1783 今日の訪問者: - 昨日の訪問者: - 国旗 国会議事堂前に掲揚されている国旗 地図 大逐日報 1951年1月4日 ついに国軍はソウルを放棄し、転進をすると発表いたしました。 これは、開戦初期に民間人への被害が大きかったことを教訓とし、早期に転進する事で、民間人への被害を最小化するというものであります。 しかし、我々の国軍は必ずや戻ってくることでしょう。 過去報道 +... 1950年6月25日 本日未明、北筑軍は宣戦布告なしで攻撃・不法南侵いたしました。 このことに対応すべく、国軍はすでに戦闘を開始しています。 また、同盟国を中心とした各国首脳は、北筑に対する非難決議を決定。 我が国に派兵を行っています。国民の皆さまには冷静に行動していただきますよう、政府から通達がありました。 1950年8月2日 今日午前10時、プサンには避難民が殺到しており、現地では食事も配られないという状況が続く中で 学徒護国団や学校、病院や食堂などが協力して大規模な炊き出しを行い、高齢者や子供たちを中心に食料を配給していました。 また、避難生活を送る中で暴力や略奪などが多数起こると予想されていましたが、開戦から今日の正午までに警察に入ってきた通報・処理件数は なんと2件のみだったようです。 さらに、多くの学生が学徒護国団に入りたがっており、近年減少傾向にあった国防意識がまた芽生え始めたと専門家は判断しています。 また政府は、近くに共産主義者やスパイと思われる人物がいるのならば、直ちに通報するように呼びかけ、通報しない場合は 国家保安法第10条、不告知罪にて処罰されると注意喚起しています。 1950年9月2日 本日、テグにて共産主義を掲げていた「南筑解放党」を「国家保安法」で摘発、すべての党員に死刑判決を出した。 この党は、ヴァーレス・イタリア人民共和国と密接な関係を持っていたようで、多くの銃火器が 党本部として使用されている建物の床で発見された。 彼らは大規模なテロを計画していたようで、近くの住民から通報が入り、摘発に至った。 以下が押収された武器である。 モシン・ナガンM1891/30 31丁 Ppsh41 13丁 38式歩兵銃 52丁 100式短機関銃 24丁 99式軽機関銃 11丁 1950年9月26日 本日、イ・ビョンマン大統領は、ソウルで行われた演説にて 「我が民族の統一に向けて、北進統一を掲げることが我が国の最善作であり また、我が国領土を不法統治している北筑労働党を排除することも重要である」 と話しました。 また、国防長官は 「大統領の意志を引き継ぎ、北進統一を唱えるものである。我が国は北筑を十分に相手できる水準まで 軍備を取り戻した」 と話しました。 また、昨夜は国軍将兵のためのアニメ上映会を行ったようで、人気タイトル数種類の1クール分を上映したようです 政府は、一般国民が銃を持つことは禁じられているとして、現在持っているすべての武器を警察に提出するように呼びかけた。 国民が銃器などを持っていることにより、略奪や殺人、北筑スパイへの武器供与にもなると説明し、いち早く警察に武器を提出するように呼びかけている しかし、陸軍はこれに反発。 国民が銃器を持つ事により、後方で起こるであろう北筑のスパイや浸透部隊等から身を守れるだけではなく、治安維持にも協力できると話している。 これに対してソウル警察署所長キム・スンギ所長は 「武器が敷かれているということは、いつ銃器乱射や、略奪行為が起きるかわからない、非常に治安の悪い危険な状態だ。一刻も早く武器を届け出ていただきたい」 と話していた。 1950年10月3日 政府は今日、国内で深刻なスタグフレーションが発生していると発表した。 経済政策を練ってはいるが、戦時中のためにあまりは効果はないとし、政府は国民に対して 「各自治体の食糧配給を待ってほしい。10分だけ」 と話していた。 農業者の多くはこう話していた 「今回の収穫量は、去年の3分の1にも至ってない。戦争だからまあ理解はできるが、それでもこれは苦しい。」 として、政府に新たな経済政策を要求しています。 1950年10月6日 本日、イ・ビョンマン大統領は、独自の国防戦略と経済戦略を発表しました。 「40年代中盤に大きく成長した電子機器分野を元に、輸出産業に力を注ぎます。そして全国各地にインフラを整備することによって、失業者は職を取り戻すでしょう。 我が国は現在戦争によって、多くの都市が破壊されている状態であるため、再開発計画を取り入れ、国家再建に努めることを約束します。」 と話していました。 しかし、多くの経済学者からは 「戦争がまだ終わっていないのにこのように慢心しているのはよく思わない。」 という意見が多くあり、現実的とは言えない雰囲気が流れています。 1950年10月11日 今日午後2時ごろ、前線の兵士を慰問するために初めて前線にボックスカー(補給トラック)が 初めて到着し、兵士からは「黄金馬車」として大変喜ばれていました。 ボックスカーの内容は、人気アニメ1クール分の無料上映と、人気ライトノベル8作全巻、そして 兵士たちの「嫁」の写真を配布するといった、士気を大幅に上げてくれるものでした。 前線で死を恐れずに戦う将兵にとっては、「嫁」の写真により、強靭無敵の兵士に様変わりしたことでしょう。 陸軍第2師団第1中隊に所属するキム上兵は言います 「俺・・・この戦いが終わったら、ケッコン(仮)するんだ」 また、海兵隊第1師団第2中隊所属のイ下士は言います 「感動で感動で・・・思わず涙が溢れてしまいました」 このように、多くの将兵に感謝されておりました。 1950年10月19日 逐国造幣公社の職員ら6名が、2年前から偽造紙幣を印刷して北筑共産党や南部軍に活動資金として提供していたことが発覚し、 今日警察が逮捕しました。 これらの職員は1年に約1200万ウォン程度を偽造し、架空の会社を設立した後に離散家族として資金を送っていました。 現在の新聞記者の月給が600ウォンであることを考えると、約1700年分のとてつもない額が偽造されていたことになります。 これらの職員は、逐国の経済を混乱に陥れるためにも市場に偽造紙幣を流通させたとも疑いを持たれており、 北筑労働党の関与の可能性もあり得ると見ています。 1950年11月30日 本日、国軍部隊がついにアンロッ河付近に野営地の建設が終了し、国軍将兵たちは休暇をとっています。 戦場でも、死を恐れない我が国軍の勇名と犠牲により、5ヶ月の長くも短かった戦争もやがて勝利を目の前にしております。 北筑共産党や傀儡人民軍等は続々、逐満(逐国・満州)国境を越えて敗走しています。 この、UN軍最高司令官である「シーチブ・フィルホロ―中将」は、UN軍全部隊に対して引き続き攻勢を続行するようにとお伝えになられました。 国軍将兵の皆さん、ついに来ました。ついに統一が目の前に来たのです! 1950年12月2日 昨夜、UN軍最高司令官総司令は、ヴァーレスイタリア人民共和国による参戦が虚無の情報であると断定しましたが、 各地でヴァーレスイタリアの兵士が目撃されており、混乱した戦闘が行われているようです。 また、脱営兵も多く存在しており、脱営の疑いのある兵士を目撃した場合、すぐさま警察が憲兵に申告してほしいと 国防部は発表しました。 1950年12月19日 国軍とUN軍は、ヴァーレスイタリア軍による攻撃により大損害を被り、フムナンで民間人とともに脱出をいたしました。 また、38線以北に残っていた国軍部隊とUN軍部隊は、ピョンヤンを手放して南方に『転進』しております。 これについて、イ・ビョンマン大統領は 「38線以南の土を絶対に踏ませないという硬い意志で、将兵らは結束している。敗北することはない。」と仰っております また、ヴァーレスイタリアとの関係については 「戦況が落ち着いた頃に、バンクス・イタリアと会談をするつもりだ。」 と仰り、外交的に多くの手助けをもらうだろうと話しておりました。 1951年1月1日 新年が明けました。 イ・ビョンマン大統領は、戦況が悪化していく中、テグで新年の挨拶を行いました。 ぺク・チャンソン記者の報道です 「大韓国民の皆さま、私が本日、ここで新年の挨拶を行うというのは、北筑傀儡集団が卑怯な手を使い、この小さな半島国家の紛争を、国際戦にまで広げようとする 邪悪な共産主義集団のせいです。 本来私は、今頃チョンファデ(注1)で記者たちから質問を受けていたところにありましょう。 しかし、私はここ、多くの学徒兵が自分たちの意志で集結したこのテグ駅前広場で、挨拶をしています。 よくよく記憶を振り返ってみると、1950年の6月25日以前からも、大小の間諜事件(注2)や、武力挑発が行われてきました。 国民の皆さまはひもじい思いをされていることでしょう。 将兵皆さまも、いつ家族の元へ帰れるのか、心が平穏な日が訪れるはずがありません。 これらは、共産主義という脅威の中で、どれほど我々自由主義諸国が結束して対抗できるかという・・・」 このような演説を18分続けた後、学生らの政治運動の列に加わり「北進統一」「滅共統一」等の旗を掲げ、総4kmを行進なさいました 注1 青瓦台の読み方、韓国大統領府、ソウルに位置する 注2 スパイの事を間諜という。いわゆるスパイ事件 国防ニュース 1951年1月4日 ソウルを防衛していた陸軍第9師団と海兵隊第2師団は、ソウルを放棄して後退をすることを決定した 過去報道 +... 1950年6月25日 北筑人民軍(以下人民軍)は、本日午前4時頃、我が国領土に向け砲撃を開始し 同時に約300両の戦車を筆頭に南侵してきています。 休暇中の将兵は、直ちに所属部隊に復帰し、学徒護国団はその地域の避難活動を 開始してください。 また、「同盟国および関係国による対北筑非難決議により決定した派兵部隊」以下UN軍が プサンに上陸する予定です。 我々国防ニュースは最新の戦況を視聴者の皆さまにお届けいたします。 1950年7月28日 ポハンにて、学徒兵が単独で女子中学校を防衛しているとのことです。現在国軍が支援に向かい、ケストレル軍も到着。 洛東河戦線は血の海という表現が合う悲惨な戦況だそうで 済州島では対空・対艦警戒が強まっています。 また、ポハン女子中学校で死亡したオ・ジャンボン中隊長学徒兵はこのような手紙を残しています お母さんへ送る手紙 +... ソウル中央中等教育学校 学徒兵オ・ジャンボン お母さん 私は人を殺しました。 それも石垣一つを間に置いて 10人余りはなるでしょう 私は二人の特攻隊員と共に 手榴弾という恐ろしい爆発武器を投げて 一瞬に殺してしまいました 今この文を書いている瞬間にも 耳の中には恐ろしい轟音でぎっしり埋まります お母さん 足が離れて行って 腕が離れて行きました あまりにも苛酷な死でした いくら敵だけど彼らも人だと考えたら、 さらに同じ言語のような血を分けた 同族だと考えるから 胸が苦しくて重いです お母さん 戦争は何故しなければなりませんか? この複雑で苦しい心情を お母様にお知らせしなければ 私の心が沈みそうです 私は恐ろしい気がします。 今、私のそばでは数多くの学友・戦友らが 死を待つように多少飛びかかることを待って 熱い日光の下、うつ伏せになっています。 書いた沈黙を守っています。 いつまた飛びかかるかも知れません 敵兵はあまりにも多いです。 私たちはやっと71人です もうどうなるのかを考えれば恐ろしいです お母さん はやく戦争が終わってお母さんふところに抱かれたいです 昨日私は下着を自ら洗って着ました 私は清潔な下着を着て 私は2つ考えました お母様が洗って下さった白玉のような下着と 私が洗って着た下着を話です ところで私は清潔な下着を着替え なぜ寿衣を考え出したのか分からないです 死んだ人に着替えさせる衣装の話です お母さん もしかしたら私が今日死ぬかも知れません。 あの多かった敵らが そのまま退きそうではないからです。 お母さん、 死が恐ろしいのでなく お母様も兄弟らも会えないと考えると恐ろしくなるのです だが私は生きていきます 必ず生きていきます お母さん いまやっと心が安定します お母さん 私は必ず生きて、またお母さんのそばに行きます サンチュの葉が食べたいです。 そして森の泉の人が冷えるように、冷たい冷水を ぐいぐいと限りなく引き寄せたいです。 お母さん やつらがまた差し迫るようです。 また書きます お母さん、アンニョン...アンニョン... なんとまあ安寧ではありませんか また書きますから..... それでは....のちほどまた........... 注: 特攻隊員=学徒兵の中には、陸軍特攻隊の訓練を受けたものもいた アンニョン=バイバイ・さようならの韓国語 1950年8月31日 本日、UN軍と国軍は仁川上陸作戦において成功を収め、海兵隊がソウルを奪還しました。 また、洛東河戦線においてはオペレーション・タングステン(タングステン作戦)を実行、 各戦域にて勝利が報じられています。 1950年9月24日 国軍とUN軍は、38線から700メートル後方に防衛陣地を構築しており、人民軍からの攻撃に備えているようです また、国軍第11機械化師団は、戦車と装甲車の追加を要請。 プサンの未来重工業の工場が生産を担当するようです 1950年9月29日 ナクトンガン戦線の東部戦線721高地にて、8月21日に負傷者による殺害事件が起こっていたことが 今日、憲兵に対する取材で分かった。 8月21日に治療を受けた故キム・スンチョル(17)一等兵は銃器を掃除したいというので、分隊長のヤン・ギムテ下士官が M1ガーランド小銃を持ってきたという。この時点では弾が込められたクリップは入っておらず、見舞いに来た分隊員の弾帯から抜き出したと同じ分隊員が証言している クリップを装填したのちに、意識不明の負傷者や、苦しんでいる負傷者を優先的に撃ったとその場にいたヤン・ギムテ下士官が証言している また、7発撃ったのちに小隊員にも銃を向けたが、発砲はせずに自分の顎に銃口を当て、こう叫んだという 「戦友よ!さらば!」 そして発砲音とともに、頭蓋骨と脳が噴き出たという これを陸軍憲兵は「戦友愛事件」と呼んでおり、戦友のために、彼らを撃ったことを永遠に忘れないだろうと話している 1950年10月1日 本日、国軍(逐国軍)第3師団は、単独で38線を突破し、統一に向けた反撃を開始した。 陸軍第3師団は、洛東河戦線で北側の防衛を任されていたこともあった。 さらにポハン女子中学校攻防戦においても、学徒兵とともに大きな戦果を収めたこともあり、非常に優秀な部隊と評価を得ている。 これにUN軍連合参謀司令部は、まだ何もコメントがない。 しかし、一週間もすればUN軍も北進を開始するだろうというのが、国防部の予想だ。 1950年10月3日 本日、UN軍も38線を越え、ついに統一に向けた本格的北進が開始された。 国軍も現在快進撃を続けており、北筑の首都であるピョンヤンにも、残り2週間程度で到着する予定だ。 1950年10月10日 現在東部戦線ではウォンサンに上陸し、12時33分にウォンサンを陥落させたと国防局から発表があった。 中部戦線でも敵に対して爆撃が激しくなっており 後方の軍需工場の稼働率は18パーセントとなっており、 引き続き、攻勢を仕掛けている。 1950年10月20日 ついに激戦の末ピョンヤンを占領し、北筑人民軍は敗走している。 さらに、ピョンヤンのほとんどの住民はUN軍や国軍を歓迎しており、この理由として、 多くのサンモリ教・ヨジャン教の信者が、ようやく堂々と宗教活動をできるという 理由があると考えられている。 何にしろ、統一への回廊は霧一つ、石ころ一つなしにまっすぐ伸びている。 1950年10月21日 約一週間前から、短機関銃や手榴弾で武装した武装共匪どもは、チリ山にこもり 罪のない善良な村民に対して脅迫をし、食料を貰っていたことが通報によって発覚した。 国軍第29師団は、対パルチザン掃討作戦を開始し、周りの住民には避難が指示された。 武装共匪は以下の武器を所持していると報告されている。 略奪品 ○ M1ガーランド 半自動小銃 ○ M3A1グリースガン 短機関銃 × PPsh41 短機関銃 ○ M1911 拳銃 武装共匪は住民を害する恐れがあるので、見かけても絶対に近寄らないようにと呼びかけている。 1950年12月1日 本日、国軍第29師団はチリ山での対パルチザン作戦を完了し、武装共匪49名を全員射殺したと発表があった。 南部軍を自称していたこれらの武装共匪は、地域住民を脅迫して食料などを提供されていたようで、 一部の共産主義者もこれに積極的に加担していたとして、9名の住民を裁判なしの死刑にかけたと言う。 近々、補導連盟(共産主義者などを自由主義・資本主義思想に矯正する国営の組織)に大規模な捜索が入る予定だ。 そして前線ではすでに休暇を取っている兵士もおり、統一間近と騒がれている。 1950年12月23日 かねてから転進を繰り返した我ら国軍は、ついに38線付近を防衛する準備を整えている。 また、海兵隊第2師団(清龍師団)の第3中隊が、単独での防衛作戦『清龍部隊作戦1号』を発行し、敵2個大隊を撃破。バンクスイタリアの新聞は、「鬼も駆ることができる海兵」と紹介し、その勇猛さを知らしめた。 1951年1月1日 新年が明けたとしても、敵は待ってくれない 陸軍第9師団は、38線付近の「395高地」と名づけられた半径6.2kmのこの高地をめぐり、数日間激しい攻防戦を繰り広げている 空軍もこの戦闘に参加しており、対地支援任務についている 東海(注1)上では、連日敵の上陸部隊を阻止するために、海軍第1・第2艦隊が警戒に当たっており 海兵隊は西部戦線で人民軍1個大隊に対し、1個中隊で敵を撃滅した 注1 日本海の韓国での名称 大逐民国の概要 国名 大逐民国 国家 愛国歌 公用語 韓国語(一部日本語・英語) 首都 ソウル特別市 最大の都市 ソウル・プサン 初代大統領 イ・ビョンマン 1948年~ 現大統領 イ・ビョンマン 1948年~ 初代国務総理 イ・ホンソク 1948年~ 現国務総理 イ・ホンソク 1948年~ 人口(1950年統計) 31,230,120人 通貨 大逐民国ウォン(KRW) GDP 200兆40億ウォン 使用バージョン 1.7.10 国歌「愛国歌」 大逐民国について 問:大逐民国?聞いた感じ日本の隣の国のようなイメージ・・・ 答:はい、完全にあの国をモチーフにしてます。現実ではいざこざがありますが、ここでは純粋に軍事部の一国家として活動していきます。 問:この国って、旅行先としてどうなの? 答:国民性として外国人には丁寧で親切な人が多いです。観光名所としては、東海岸では海水浴や新鮮な海の幸、中部地方では山がちな地形を利用したアクティビティや、少し離れた済州島では美しい海、スキューバダイビングなどのアクアレジャーが楽しめます! 問:この国って、辛い食べ物もの多いんでしょ?辛いの苦手・・・ 答:大丈夫です!辛いもの以外にも韓菓と呼ばれる伝統菓子や、冷麺などもあります!美食家には無視できないでしょう! 問:この国って、安全?いや治安とかじゃなく、安全保障的に 答:・・・まあ、軍がありますので、安全です() 問:北筑ってなに? 答:北筑民主主義人民共和国とは、朝鮮半島の38度線以北を不法占領している共産主義の武装集団です。国際的にも違法な国家であり、東アジアの平和を脅かしています。 産業について +... 1950年現在の産業は、主に電子機器・自動車・航空・造船業が主となっている。 電子機器については、1944年に起こった第4次IT革命にて、スマートフォン・PCの技術が飛躍的に向上し 国内のゲーム産業の約60パーセントはPCゲームが占めている。国内企業は市場を国内だけでなく、海外にも積極的に輸出している。 特に輸出額の多いバンクス・イタリア統帥国では、我が国産の電子機器・家電製品が常識となっている様だ。 軍需産業について +... 1919年、のじのじ国との戦闘が激化していく中、兵器はほとんどがのじのじ軍から鹵獲したり、民間企業単位で開発を進めたりしていたが、とても使用できる兵器が開発されないため、ほとんどを鹵獲品でしのいでいた。しかし、小火器に関しては、1911年に「M1911」や「M1 ガーランド」「BAR」などの小火器が開発されていき、いくつもの改良が施されながら使用されていった。 1926年からは、兵器の国産化を決意。国防部は経験を積むため、中戦車や軽戦車を大量に開発していった。 しかしながら、時代は主力戦車(MBT)の時代に移っており、性能もあまり満足するような物ではなかったので、急ぎ他国からMBTを輸入し、研究を進めた。 これによって製造が開始されたのが逐国軍主力戦車であるK1である。 しかしながら、高精度なパーツの生産が追い付かず、よりコストをダウングレードしたK48A1Cやより小型化されたK48A1Kを開発した。 しかし、自走砲はいくらたっても開発されないため、新型自走砲は輸入するという話も出ている様だ。 国内の軍需産業は近年、輸出にも力を注いでおり、代表的なのは中南北雛島連邦に輸出されたK202装甲兵員輸送車である。 このように軍需産業も国内の経済を支えている一つの分野になった。 政治について +... 大逐民国の政治体制は、 国民について +... 1920年~ 1920年代の国民の多くは農村出身であり、学校に行くこともままならない子供が非常に多かった。 理由は、のじのじ国との8・15運動や、和解後の混乱などで、仕事につかせる方が家のためになったからである。 さらに、このころは学校が十分に建てられていない頃だったため、それも原因の一つとして数えられている。 1930年~ 1930年代は、国家主義的テロ組織である「ドクチェ党」との戦争、そして国家保安法制定という中で形成された 反国家主義という思想が、国民の間には広まっていった。 特に高等学生から大学生の間では、政治の授業で過激な発言をするものが多くなったと言われている。 1940年~ 1940年代になってくると、第3次IT革命が起こり、一部の職場や公共機関ではPCが使われるようになった。 これによって、機械工学や電子機器類の専門知識をつけようとする国民が多くなり、高等学校進学を目指す学生も多くなった。 しかし40年代後半は、共産ゲリラによる攻撃と、北筑の建国等、離散家族を生む悲劇が起こったり 第一回逐国大統領選挙が中止されたりと、国内は再び混乱することとなった。 憲法・法律 大逐民国憲法 +... 第一共和国憲法と呼ばれている大逐民国初の憲法である。 現在公開はされていない。 重要法律 国家保安法 +... 反国家団体の構成(第3条)、及びに反国家活動の遂行(第4条) 反国家団体への自発的な支援とこれへの金品授受(第5条)、これを称賛・鼓舞する行為(第7条) 反国家団体構成員(スパイなど)の逐国内潜入・脱出(第6条) 反国家団体構成員との会合・通信(第8条)、これへの便宜供与行為(第9条)、その存在など国家保安法違反の状況を知りながら当局に通報しなかった行為(不告知罪;第10条) 特殊職務の遺棄(第11条) 他人を陥れる目的で無実の者を同法違反者として通報する行為(誣告処罰規定)、及び同じ目的のために法律違反の証拠を捏造・隠匿する行為(第12条) 近代史早見表 +... 1602年 朝鮮半島をイ・ソルギ将軍が支配。国名はセジョン 1700年 ユ・ヨンチュ第32代国王がシング国に対し侵攻。勝利に終わる 1835年 ユ・クムゲ第87代国王が失脚。国内はバラバラになり、村単位での生活に戻る 1842年 大陸から鉄砲や大砲などの火薬類が伝わる 1901年 イ・スウォンという国王の子孫が「李・共和国」を建国 1910年 のじのじ国が統治。イ・スウォンは済州島へ逃亡、島民によって殺害 1911年 のじのじ国から独立しようと共和国臨時政府が樹立(後に大逐民国臨時政府に変更)、これを8・15運動という 1912年 光復軍と呼ばれる民兵組織が形成されて行き、本格的な戦闘が始まる 1918年 のじのじ国と戦闘激化 1920年 のじのじ国と和解が成立。戦争が終わる 1923年 イ・ビョンマンが「大逐民国」の建国を提唱 1925年 大逐民国憲法が制定され、正式に建国される 1931年 国家主義的テロ組織「ドクチェ党」との8・5戦争が勃発。国内でテロが頻発する 1932年 8・5戦争が収束。すべてのドクチェ党指導者が死刑判決を受け、処刑される 1935年 国家保安法が制定される 1940年 第3次IT革命がおこり、超低性能PCが様々な用途で使われることになる 1943年 領土が公式制定される。 1944年 第4次IT革命がおこり、家庭用固定電話がほんの一部の高所得家庭に普及する 1947年 共産ゲリラによる攻撃が始まり、38線以北を占領される。 同年 共産ゲリラが建国。北筑民主主義人民共和国(北筑)が建国される 1948年 第1回逐国大統領選挙実施。しかしイ・ビョンマン大統領が中止し、問題になる 1949年 38線付近の高地を北筑軍が占領する戦闘が発生。陸軍は特別攻撃にて、これを撃破する 1950年 6.25戦争が勃発する 同年 仁川上陸作戦・オペレーションタングステンが成功となり、反撃に転ずる 関連企業一覧 企業名 分野 小宇(ソーウー)プレジシション 銃器類・火器管制装置・戦車砲等 小宇造船海洋 艦艇等 小宇大工業 車両・航空機・戦車砲等 未来重工業 車両・航空機・艦艇・レーダー等 大逐航空 航空機・レーダー等 リパブリック・ディフェンス 艦砲・機関砲・火器管制装置等 興亜自動車 車両 フォーゼ・アーツ 機関砲・レーダー 軍事情報 大逐民国軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成されている。この三軍を指揮する最高統帥権者は、憲法第63条により大統領と定められている。 逐国の国防機構は大統領を頂点に、大統領を補佐する5つの国防機関である「国家安全保障会議」「行政安全部」「国務会議」「国家軍備管理部」 「国家安全企画部」と、 「国防部」から構成されている。 また、全国各地の中学校・高等学校・大学校には「学徒護国団」と呼ばれる学徒兵の組織があり、志願制となっている。 各種兵器の基本方針 +... 基本的には、「リアル」っぽいやつを作っていきます。 操縦席を設けたり、砲手・装填手席を作ったりして、実物と同じようにします。 造形に気を使って開発を進めています! 部隊配置図 緑=陸軍駐屯地・飛行場 水色=海軍軍港・基地・飛行場 肌色=空軍飛行場・基地 茶色=海兵隊駐屯地 海上にあるのは人口海上基地・飛行場 軍歌集 +... 陸軍歌 +... 滅共の松明 祖国がある 戦友よさらば 貴様と俺 陸軍特殊戦司令部歌 黒いベレー帽 海軍歌 +... 海へ行こう 海兵隊歌 八角帽の男 空軍歌 +... 赤いマフラー 学徒護国団歌 +... 学徒護国団歌 陸軍装備 +... 戦争状態にある我が国の要、民族の防壁 1925年の大逐民国軍創設以来、最も主軸を置かれてきたのが大逐民国陸軍であり、これからも発展していくと思われる軍である。 山がちな朝鮮半島の特性上、大規模な機械化戦力や大口径砲等はかえって足手まといとなる。そこで逐国陸軍の機械化師団では砲の威力を犠牲にして、エンジン性能を向上させるという対策を練っている。 歩兵に関しては、6.25戦争で山岳戦闘や高地戦などの過酷な状況下での戦闘を経験したこともあり、実戦経験も豊富だ。 装備はサスペンダーと弾帯を基本とする装備で、ヘルメットに防弾性能はない。 #ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 写真のように、Xタイプサスペンダーと弾帯にアムニッションポーチをつけ、ファーストエイドポーチ、キャンティーン(水筒)、銃剣をつけている。個人装備としては軽量なほうだ アム二ッションポーチには予備弾薬を、ファーストエイドポーチには必要最小限の包帯等を収納している様だ。水筒は0.9Lの容量で、アルミ製だ。 冬の季節になるとネックウォーマーと手袋が支給され、さらに戦闘服の上にも着こめる野戦上衣(通称:ヤサン)が支給される。 しかし、朝鮮半島の厳しい冬を越すにはこれだけでは不十分であるため、中には敵の被服を中に着込んでいる兵士も時々見られる 戦車 +... K1 +... 最高速度 65km/h 渡渉水深 2.1m (渡渉装備を付けた場合) 主武装 KM50A1 51口径105mmライフル砲×1 (47発) 副武装 K6 12.7mm重機関銃×1 (2000発) M1919 7.62mm重機関銃×2 (8600発) 乗員 4名 (操縦手、砲手、装填手、車長) K1は1945年に開発された初の国産の主力戦車であり、1948年から配備が開始されている。K1は小宇プレジシションの高精度なKM50A1 51口径105ミリ砲を装備しており、これは山がちな朝鮮半島の地形の特性上、交戦距離が短くなるという事や、アジア人の小柄な体格では120ミリ砲の連続装填などが困難だという理由があるようだ。副武装として車長用ハッチにK6重機関銃と、装填手用ハッチにM1919重機関銃、そして同軸機銃としてM1919重機関銃が装備されている。さらに車長用には2軸がスタビライズされた倍率3~14倍切替式の独立型パノラマ・サイトが装備されている。これにより砲手が目標を照準中に車長が次の目標を捜索、照準するハンター・キラー能力を有している。砲手用にはレーザー・レンジファインダー、熱線暗視装置が組み込まれた昼・夜間兼用サイトが装備されている。このサイトも2軸が安定化されており、昼間用は等倍と12倍の切替式、夜間用が2倍と10倍の切替式になっている。弾道計算機はデジタル式で、風向センサーと連動する高度なものだ。これは1950年代の逐国のコンピュータ技術では最新の技術を詰め込んでおり、整備に少し時間や手間がかかることが欠点とされている。 K1A1 +... 最高速度 49km/h 渡渉水深 2.1m (渡渉装備を付けた場合) 主武装 KM39A1 44口径120mm滑腔砲×1 (31発) 副武装 K6 12.7mm重機関銃×1 (2000発) M1919 7.62mm重機関銃×2 (8600発) 乗員 4名 (操縦手、砲手、装填手、車長) K1戦車はコストや整備等を考えなければ理想の戦車であった。北筑の戦車をあらゆる角度で貫通できる砲を備え、十分な防御力を持っていたからだ。しかし、6・25戦争に外国軍が介入してくると、それまで重視してこなかった砲の威力不足が露呈することとなった。これを重く見た国防部は、一部のK1戦車の主砲をそれまでの105mm砲から、120mm砲への換装を急かした。ただ、砲の威力と引き換えに搭載弾薬数と持ち前の機動性、装填手による砲弾の連続装填が困難だということがわかってくると、このK1A1は生産中止となり、西部戦線に3両が配備されたに終わった。 装甲車 +... K202装甲兵員輸送車 +... 最高速度 74km/h (浮航時7km/h) 主武装 K6 12.7ミリ重機関銃×1 (1900発) M1919 7.62ミリ重機関銃×1 (4200発) 乗員 3+10名 K202は1941年から運用されている逐国初の国産装甲兵員輸送車である。K202の車体は防弾アルミ製の全溶接構造で、前面下部と側面全体にスペースド・ラミネート式の増加装甲がボルト止めされている。この増加装甲の内部にはポリウレタン・フォームが充填されており、水上浮航時に浮力を増大する役割も担っている。主武装は銃手用キューポラに搭載された防盾付きのK6 12.7mm重機関銃のみだが、車長用キューポラにM1919 7.62mm重機関銃を装着する事もできる。兵員室は側面が斜めに削りこまれており、左右に各2基のガン・ポートとペリスコープが備えられている。K202は朝鮮半島の厳しい冬における運用試験をパスしたほか、72時間の連続走行テストなども行われ、軍幹部を満足させる結果を出した。 K202装甲兵員輸送車の派生型 +... K207 105mm自走砲 +... 最高速度 57km/h 主武装 KH113 105mm榴弾砲 副武装 K6 12.7mm重機関銃×1 (700)発 乗員 7名 (操縦手、砲手、装填手4名、車長) K207 105ミリ自走砲は、1950年の6.25戦争中に配備された国産自走砲である。K207は、その型番からわかるように、K202装甲兵員輸送車の派生型であり、車体はK202のものが使われている。K207は、戦場で撃破されるも運よく車体が残った個体にKH113 105ミリ榴弾砲を取り付けたもので、コストもかからず、また新規に車体を製造する必要性がないため、部品の共通化によって生産性が向上している。また整備の面でも、K202と共通している部分が多く、弾薬もKH113 105ミリ榴弾砲と同じ弾薬を使用するため、整備も補給も容易である。K202の機動性の高さも受け継がれており、同時期に開発されたK10 105ミリ自走砲と比較しても、機動性に関しては上回っている。しかし、防御力はK10を大きく下回り、装甲の厚さはK202と同様に最大38ミリと、重機関銃程度から身を守れるくらいにしかならない。しかし補給や整備の面から高い評価を得ており、戦果も十分な結果を出しているため、生産は続けられている。 自走砲 +... K10 105mm自走砲 +... 最高速度 51km/h 主武装 KM7 105mm榴弾砲 副武装 K6 12.7mm重機関銃×1 (1000発) 乗員 5名 (操縦手、砲手、装填手2名、車長) K10 105ミリ自走砲は初の国産自走砲である。1950年9月に配備が開始され、1950年現在、陸軍で53両運用されている。K10は火力支援を行える自走砲として、1942年から開発が進められてきた。砲手は無線から送られてきた座標を頼りに砲撃をするが、座標と方位さえ入力すれば適正発射角を割り出してくれるナビゲーターシステムもついている。構造自体はとても単純で、光学機器はほとんど使われていない。しかしオープントップなため、ホコリや砂、手榴弾などの投げ入れや、さらに市街地では上部から小火器で攻撃されるとなすすべがないという状況が起こりえるため、中隊によっては厚さ15ミリの鉄のカバーを乗せることをしている様だ。また、車体に傾斜装甲を採用したことで、ある程度の防御力を備えておきながら、素早い陣地転換が可能であることが高く評価されている。 K207 105mm自走砲 +... 最高速度 57km/h 主武装 KH113 105mm榴弾砲 副武装 K6 12.7mm重機関銃×1 (700)発 乗員 7名 (操縦手、砲手、装填手4名、車長) K207 105ミリ自走砲は、1950年の6.25戦争中に配備された国産自走砲である。K207は、その型番からわかるように、K202装甲兵員輸送車の派生型であり、車体はK202のものが使われている。K207は、戦場で撃破されるも運よく車体が残った個体にKH113 105ミリ榴弾砲を取り付けたもので、コストもかからず、また新規に車体を製造する必要性がないため、部品の共通化によって生産性が向上している。また整備の面でも、K202と共通している部分が多く、弾薬もKH113 105ミリ榴弾砲と同じ弾薬を使用するため、整備も補給も容易である。K202の機動性の高さも受け継がれており、同時期に開発されたK10 105ミリ自走砲と比較しても、機動性に関しては上回っている。しかし、防御力はK10を大きく下回り、装甲の厚さはK202と同様に最大38ミリと、重機関銃程度から身を守れるくらいにしかならない。しかし補給や整備の面から高い評価を得ており、戦果も十分な結果を出しているため、生産は続けられている。 トラック・多用途車等の車両 +... K111多用途車 +... 乗員 2名+2名 武装 M1919重機関銃、K6重機関銃等 K111多用途車は1940年に採用が決まった興亜自動車で生産されている車両であり、陸海空軍問わずに広く使用されている。K111はエンジンなどにも完全防水加工を施した完全防水車両で、約2メートルの水中走行が可能である。K111は無反動砲搭載車などの派生型も存在しており、設計の単純さなどから長く使用されそうだ。ちなみに将兵からは「ジープ」という名で親しまれている。 K111多用途車の派生型 +... K116 106ミリ無反動砲搭載車 +... 乗員 2名+2名(砲手、装填手) 武装 K49 106ミリ無反動砲 K111多用途車の派生型として最初に開発された支援車両。106ミリ無反動砲は旧式で、榴弾と榴散弾しか発射できないが、歩兵や非装甲目標に対しては十分威力を発揮するため、問題ないとされている。 支援車両・器材 +... K212 装甲回収車 +... 最高速度 67km/h (浮航時7km/h) 主武装 M1919 7.62ミリ重機関銃×1 (2000発) 乗員 3名(操縦手、無線手、車長) K212 装甲回収車とは、1950年12月に配備が開始された国産の装甲回収車である。型番からわかるように、K202 装甲兵員輸送車の派生型であり、戦場で故障した車両の修理や、軍用車両の回収を目的として開発された。それまで戦場での軍用車両の回収は、すべて他国軍に依存しており、この状況を打破するために本車が開発された。車体後方側面には汎用性の高いクレーンを装備し、車体後部にウィンチ、車体各所にはスペアパーツが大量に付けられており、あの広かった搭乗員スペースも埋まるほどにパーツが搭載されている。しかし予備エンジンを搭載することはできず、あくまでも応急処置的な意味での修理が可能なだけである。陸軍は1950年1月現在、K212用の車体を故障した車体から流用するのではなく、新品の車体を使うように要求している 海軍装備 +... 駆逐艦 +... 雪風級駆逐艦 +... 満載排水量 4800t 喫水 4.3m 主機 CODOG KFT39 ガスタービン 2基(5,3640馬力) TWTD 20Vディーゼル 2基(8000馬力) 速力 30kts 航続距離 1,2000km/17kts 乗員 185+101名(最大380名) 艦数 1番艦、2番艦、3番艦、4番艦、5番艦 雪風級駆逐艦とは、大逐民国初の国産駆逐艦となり、海軍で初めて運用が開始された船でもある。海軍が組織された当時の戦力は揚陸艇にK6重機関銃や、M1919重機関銃などを搭載した、いわゆる即席の警備艇とも言えない船を中心に使用したが、もちろんそんな戦力で海軍を維持させるのは到底無理だと海軍本部も感じていた。1937年、ADDN(国防科学研究所海軍部)は、未来重工業と小宇造船海洋に排水量5000t未満の大型駆逐艦を建造するように要請。これを受領した同企業は、1939年に建造を開始し、1945年末に進水して1年ほど試験を行った後、1946年に就役した。雪風級駆逐艦は、VLS(垂直発射システム)を搭載し、艦内の弾薬庫からベルト・コンベアで発射済みの弾倉を交換することができる「弾倉装填式給弾システム」を採用しており、戦闘中であっても約8分で再装填が完了する。艦載砲はリパブリック・ディフェンスの「KG5/13 62口径127mm砲」を搭載しており、陸上への艦砲射撃を重視した砲となっている。近接防御火器は、フォーゼ・アーツ「GAU-2/30mmCIWS」を搭載しており、強力な大口径で飛翔体を木っ端微塵にできる優れものだ。また艦後部には、ヘリ格納庫とヘリ発着甲板があり、格納できるヘリは2機となっている。1951年現在、合わせて5隻が就役しており、1965年までに合わせて20隻の建造を目標としているが、予算は割り振られていない。 空軍装備 +... 戦闘機 +... P-51B・ +... 最大速度 703km/h (高度7620m) 巡航速度 530km/h 航続距離 2655km(増槽有) 主武装 K6A4 12.7ミリ重機関銃×6 (1880発) 追加武装 各種爆弾・ロケット弾等 3180kg P-51Bは、1949年から1950年までの間に開発されたレシプロ戦闘機である。本機は、年々減少傾向にあった1940年代後半期の空軍の予算を節約するために、ADDAF(国防科学研究所空軍部)が設計を担当し、大逐航空と未来重工業が生産している戦闘機である。6.25戦争では、仁川上陸作戦後に配備が開始され、ウォンサン上陸作戦やピョンヤン攻略戦ではその汎用性を生かして開幕爆撃や、夜間攻撃・対地上支援などにも使用された、いわゆる傑作戦闘機である。1950年12月の配備状況は全航空隊合わせて33機であり、追加で120機と67機の生産滞納分を合わせると220機の大規模な航空戦力を有することとなる。 海兵隊装備 +... 外交関係 同盟・条約・国交申請用コメント欄 テスト -- ちく (2016-08-27 18 00 17) 逐ノ同盟の再締結?をお願いします。 -- のじのじ (2016-09-02 17 34 48) 名前 コメント 同盟国 国名 同盟名 同盟内容 中南北雛島連邦 逐雛相互軍事協定 当時国が攻撃を受けた際、もう一方の国は集団的自衛権を行使し当時国を守る義務を持っている バンクス・イタリア・ディ・ファシスティ 逐卵軍事支援協定 両国のいずれかが軍事行動によって攻撃された場合、2週間の準備期間を経て当事国に軍事的支援をする アルデラ帝国 逐亞相互防衛軍事同盟 シシ王国 逐獅相互防衛条約 軍事行動によって攻撃を受けた当事国は、直ちにもう一方の国へ通達を出し、通達を受けた国は迅速に医療・人道・軍事支援を展開する クラフティン共和国 逐倉相互軍事同盟」 両国はともに不可侵を厳守し、両国のうち一方が軍事行動によって攻撃された場合、もう一方の国は医療・人道・軍事支援を行う 夢幻帝国 逐夢相互防衛協定 両国のいずれかが軍事行動によって攻撃された場合、当事国に軍事的支援をする のじのじ民主主義軍事帝国 逐ノ軍事協定 相互防衛協定と両国不可侵を定めた同盟 友好国 国名 バンクス・イタリア・ディ・ファシスティ 条約締結国 国名 条約名 同盟内容 中南北雛島連邦 逐雛軍港共同運用協定 鬱陵島の軍港・海兵隊駐屯地、日本海近海の海上補給基地、ソクチョの軍港を共同運用する。すべての寝食を保証し、娯楽施設なども共同利用する バンクス・イタリア・ディ・ファシスティ 逐卵軍事技術交流協約 軍事技術の交流を活発にする アルデラ帝国 逐亞技術交流協定 シシ王国 逐獅軍民技術交流協定 軍事・民間技術の両方の交流を促進させる協定 シシ王国 6.25・南米戦線不適応協定 大逐民国と北筑民主主義人民共和国間で勃発した「6.25戦争」にシシ王国は南米戦争の収拾がつき次第、「逐獅相互防衛条約」を適用する。大逐民国は「6.25戦争」に収集がついたからといって、この同盟を適用させるものではない 夢幻帝国 逐夢民文化交流協定 民間単位での文化交流を促進する条約 夢幻帝国 逐夢自由貿易協定「逐夢FTA」 FTAを規定している のじのじ民主主義軍事帝国 逐ノ基本条約 民間企業単位の文化・技術交流や、朝鮮半島の存在する唯一の合法政府と認めることなどが盛り込まれている のじのじ民主主義軍事帝国 逐ノ貿易協定 基本的な貿易条項について規定している のじのじ民主主義軍事帝国 逐ノ海軍施設共同利用協約 のじのじ国のすべての軍艦は逐国海軍の軍港・その他施設を共同利用することができる 国交を有している国 国名 内容 中南北雛島連邦 鬱陵島(ウルルン島)に限り雛人はパスポートなしでも活動できる。 貿易船、定期航路の開設 バンクス・イタリア・ディ・ファシスティ 定期航路と貿易船、航空航路の開設。ただし冬期は航空のみである アルデラ帝国 シシ王国 航空路と船舶航路の開設 クラフティン共和国 航路の開設 夢幻帝国 航路の開設 のじのじ民主主義軍事帝国 航路・航空路の開設 仮想敵国 国名 敵国 国名 理由 北筑民主主義人民共和国 国家を分断し、東アジアと周辺地域の平和を脅かすため 質問・感想等、気軽にどうぞ! テスト -- ちく (2016-08-27 18 00 05) 我が国の軍事介入及び軍事的支援を北筑様にさせていただきたいとおもいますが、まだ間に合いますでしょうか。我が国の思想は、我が国以外の共産国家はすべて敵なので、どちらの立場でもなくただ介入させていただきます。 -- ヴラディノフ外相 (2016-08-27 19 40 14) 6.25戦争が長引いているようですなぁ...逐ノ同盟も締結したことですし、新鮮なまぐろ7トンと美味しい麻婆豆腐2000食、羊毛でできたベット200台の援助を行いますぞ!! -- のじのじ (2016-08-29 23 11 04) ご指摘いただいた表示は訂正しました。また何かあったらご連絡ください。 -- のじのじ (2016-09-25 08 59 43) 外交関係の欄の「のじのじ国」を「のじのじ民主主義軍事帝国」に変えて頂けると助かります・・・内容の欄での我が国の呼び方については略称で構いませんぞ( ⊙‿⊙) -- のじ (2016-10-05 01 38 46) 変更の件、ありがとうございました! -- のじのじ (2016-10-06 19 22 07) 生存報告 -- ちく (2016-12-07 18 46 17) なんなんですかこれは… -- ちん (2017-01-17 17 23 06) 名前 コメント 北筑民主主義人民共和国 북치쿠민주주의인민공화국!만세!!! 北筑民主主義人民共和国!万歳!!! 北筑民主主義人民共和国(通称:北筑)とは・・・ 1948年に建国された社会主義の人民共和国である!!! 南筑(逐国)は朝鮮半島38線以南を不当に統治し、我が共和国の安全を脅かしている。 また、1950年6月25日に我が共和国は「リー・ビョンマン」傀儡政府から先制攻撃を受け、 ついに我が共和国は武力による解放を目指し、南筑に進撃した。 国旗 主席宮に掲揚された人共旗 北筑中央通信 1951年1月4日 ついに我が共和国が南筑の首都にまで迫り、漢江戦車橋を爆破してみっともない敗走を始めた 我が共和国は統一する!朝鮮半島赤化統一の課業を達成するのだ! 南筑革命の日は近い! 軍事情報 人民陸軍装備 +... 人民海軍装備 +... 人民空軍装備 +... 人民軍特殊部隊装備 +... 人民軍特殊装備 +... 外交 同盟国 内容 ヴァーレス・イタリア人民共和国 軍事同盟 大幻夢社会主義共和国連邦 軍事同盟・不可侵・航空・海上航路開設 リクシリア労働社会主義共和国 軍事同盟 コメント:同盟・条約申請 「大幻夢社会主義共和国連邦」として和睦・不可侵条約・同盟締結をお願いします。 -- mugenteikoku (2016-09-16 00 26 04) 名前 コメント
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コメントプラグイン @wikiのwikiモードでは #comment() と入力することでコメントフォームを簡単に作成することができます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //www1.atwiki.jp/guide/pages/921.html#id_476878da たとえば、#comment() と入力すると以下のように表示されます。 名前 コメント
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ここでは、集計された条約についての会議を行います 黒曜石禁止について 選択肢 投票 黒曜石の完全禁止 (4) 実験の的として以外は使用禁止 (3) 実験の兵器以外使用禁止 (8) 実験以外使用禁止 (4) 黒曜石使用ok (28) その他 (1) 誹謗中傷はさけ、揚げ足の取り合いにならないようにコメントするときは気をつけましょう 禁止にすると我が要塞 -- miyu (2015-05-13 19 58 41) が機能しなくなってしまうではないか! -- miyu (2015-05-13 19 59 23) 名前 コメント
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ペルシア侵攻 この項目ではラス・エラセド連合帝国によるペルシア侵攻について説明しています。そのほかの企画については過去企画を参照してください。 この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。 System=話し合い ペルシア侵攻(英 Rookrian Aggression of Persia、統一歴171年)は、南アジアに位置するラス・エラセド連合帝国によるペルシアへの軍事侵攻である。 ペルシア侵攻 目次{[非表示] 1. 概要 2. 背景 2-1. 170年代初頭のオリエント情勢 3. 開戦 4. 開戦後の経緯 4-1. 侵攻開始 4-2. カラチ市攻防戦 4-3. カラチ沖海戦 4-4. イスラマバード攻防戦 4-5. イスラマバード航空戦 4-6. 171年雨季大反攻 5. バグダッド和平協定 5-1. バグダッドでの講和会議 5-2. バグダッド和平協定 6. 影響 戦争 戦争 年月日 2023年3月31日〜? 場所 ペルシア共和国領パキスタン 結果 ペルシア共和国側の実質的勝利 概要 推移統一暦171年のペルシア共和国における政権交代に端を発する、ラス・エラセド連合帝国による軍事侵攻。帝国軍は初め優勢であったものの、世界各国からの支援や無理な作戦計画などの要因で攻勢が頓挫し、反攻を受けて撤退する。帝国は領土要求の撤回などを強制され事実上の敗北を喫し、このことが172年元旦政変の遠因となったと考えられている。 背景 170年代初頭のオリエント情勢当時、「西方の共産主義者の打倒」「レグルスの解放」をイデオロギー的目標に掲げるラス・エラセド連合帝国は、しかして新ソ連との陸上国境を持たず、未だ目標達成のための有効な手立てを打てずにいた。帝国と新ソ連の間に存在するのは、かつて中央アジアに存在したある王朝の崩壊ののち成立した、イラン、アフガニスタン、パキスタンを領土とする中立的な国家、ペルシア共和国である。統一暦171年、ペルシア共和国選挙において左派の野党労働党が勝利し、党首モハンマド・アブディが大統領に就任すると、ペルシアは新ソ連寄りの外交を展開しはじめる。隣国が仮想敵の勢力圏に収まるのを嫌った帝国は苛烈な政治工作を展開するが、ことごとく失敗。むしろいくつかが明るみに出て反帝国感情を高める結果となってしまう。 開戦 ペルシアに対する諜報作戦の失敗のために、威信をかけて後に引けなくなった帝国は、パキスタンおよびアフガニスタン地域においてデモを扇動し、これに参加した地元住民をペルシア軍内のスパイに殺させて事件を偽装、こうした地域の住民をアブディ政権の圧政から解放することを名目としてペルシアとの戦争を開始する。 開戦後の経緯 侵攻開始4月3日、帝国軍は虎の子の機甲師団を運用し、北部パンジャーブ地方の平地から電撃的に侵攻を開始、開戦初日にはラホール市、5日でムルターンまで進撃した。しかしその後、ヒンドゥークシュ山脈を利用した徹底的な防衛戦闘によって、戦線は膠着する。この戦争への介入を表明した新ソ連陸軍が開戦3週間後には前線に到着し始め、兵器などの支援はそれよりさらに早くペルシアに届けられた。開戦2ヶ月後にはイットリカン民主主義国による義勇軍・レンドリースや、クリーニングラード出張国によるCp-98シリーズやUCG-5E2アサルトライフルの供与といった支援が届き始め、防衛体勢はさらに頑強なものとなり、新ソ連軍主導での逆攻勢すら実施された。後述する都市部への攻撃を除いては、帝国軍の攻撃はもはや人員と装備をすり減らすだけになりつつあった。さらに、帝国軍は国粋主義国家の悪弊にも悩まされる。つまり、軍組織自体の現地住民軽視の性質である。民間インフラの復旧が無視されるのは当たり前で、徴集・徴用もごく一般に行われた。これによって、占領地の市民感情は悪化。レジスタンス運動は非常に活発に行われ、補給物資は頻繁に襲撃を受ける上、帝国側の情報はペルシア側にその多くを抜き取られることとなる。 開戦後の侵攻ルート参考図 カラチ市攻防戦ペルシア側連合軍は、バルーチスターン州東部のベラ市を含む湿地帯への入り口であり、東西南北の交通の結節点である大都市、カラチ市に防衛陣地を構築していた。帝国軍は、カラチ市と西方をつなぐ道路を強襲上陸によって遮断し、海上封鎖を実施することで、カラチ市を包囲することを企図する。帝国軍は、強襲上陸には成功し、陸上での封鎖を完成させるものの、カラチ沖海戦での敗北によって、海上封鎖には失敗してしまう。さらに、陸上での封鎖も現地レジスタンスによって不完全に終わったために、包囲は事実上の失敗となってしまう。にもかかわらず、侵攻軍は上層部に作戦成功と報告したことで、カラチが包囲下にあると判断した司令部によって度重なる市街地への攻撃が敢行され、帝国軍はさらに戦力をすり減らすこととなる。 カラチ攻略作戦概要図 カラチ沖海戦カラチ沖海戦は、カラチ市の海上封鎖中の帝国艦隊に、ペルシア・新ソ連・IRISの連合艦隊が攻撃を仕掛ける形で始まった。結果的に、帝国海軍第一艦隊(帝国象徴艦隊)は質だけでなく物量においても劣勢に立たされ、少なからぬ旧式戦艦と巡洋艦、駆逐艦を失い、さらにその他の艦にも大小の被害を受けて敗北し、封鎖を解くこととなる。 第一艦隊旗艦「ディー・カイゼリン」 イスラマバード攻防戦カラチでの戦いと時を同じくして、北部イスラマバードでも帝国軍による攻勢作戦が発動された。市街に立て篭もるペルシア側連合軍に対して、帝国軍は航空戦力を集中させることで、戦争開始以来一貫して劣勢だった航空戦をイスラマバード上空においてのみの局地的優勢とし、同市に対する爆撃をもってこれを攻略せんとした。実際、イスラマバード市を占領し、近郊の空港の奪取に成功すれば、戦域全体の空の戦況の改善も見込めたため、ある程度合理性のある戦略であったーただし、この作戦の成功を前提としてだが。現実には、帝国渾身の爆撃作戦は、まず前提の局地的優勢から破綻した。あまりにも帝国空軍が弱体すぎて、ほぼすべての航空戦力をかき集めても作戦行動に十分な戦力とならなかったのだ。見切り発車で行われた爆撃作戦は、イスラマバード上空での航空戦に発展する。帝国はこの航空戦に敗北したものの、陸上戦力の大規模な投射によって強引にイスラマバード市を奪取する。 イスラマバード航空戦イスラマバード上空での航空戦は、ペルシア軍の骨董品のようなレーダーが帝国軍機の侵攻をとらえたところから始まった。帝国空軍は常に致命的な予算不足の状態にあり、ステルス機を作ることができなかったためである。はじめ量的優勢でペルシア軍機を圧倒していた帝国軍だったが、まずI.R.I.S.空軍、つづいて新ソ連空軍が増援として到着したことで、未だ量的優勢をかろうじて保持していたものの、それによって質的な差を埋めることができず敗北する。 171年雨季大反攻8月4日、早暁とともにペルシア・新ソ連の連合軍の反攻が開始される。開戦当初、国力的な問題でごく少数の機甲戦力しか保有していなかったペルシア軍は、前述のクリーニングラードやイットリカンによる兵器支援、統合国家ファントムによる主力戦車や装輪ロケット砲の供与によっていまや帝国軍を遥かに凌ぐ規模の装甲兵力を抱えていた。一方の帝国軍は基本的に圧倒的な人口に飽かせた人海物量戦術であり、その歩兵戦力はペルシア軍の用いるファントム製ロケット砲になす術なく薙ぎ倒されていくこととなる。それでも肉壁を代償として1ヶ月ほど戦線を維持したものの、凄まじい損耗によって新兵ばかりになり指揮官も不足した帝国軍では脱走や敵前逃亡が頻発、9月中旬には前線を支えきれなくなってしまう。10月中旬には前線はほぼ戦前の国境線まで後退したものの、自国領に入ったことで帝国軍の補給事情が改善し、防衛が安定。ペルシア共和国の財政状況の悪化もあり、ここで和平が結ばれることと相成った。 終戦時の前線 バグダッド和平協定 バグダッドでの講和会議和平条約は、帝国にとって屈辱的なことに新ソ連領内バグダッドにて行われた。和平内容は次のとおり。 バグダッド和平協定・ラス・エラセド連合帝国とペルシア共和国の間の国境は5月3日以前の両国統治領域の境界線であることを両国が確認する。・ラス・エラセド連合帝国は、ペルシア共和国が独立した主権をもつ国家であることを承認する。・ラス・エラセド連合帝国は、パキスタン地域およびアフガニスタン地域がペルシア共和国の正当な領土であることを確認する。 影響 帝国とペルシアの間には白紙和平が結ばれ、この戦争は対外的には引き分けとなった。しかし、戦後の状況を考えると、これはペルシア側の完全勝利であった。この侵攻の失敗によって、帝国政府、特に帝室は動揺し、さらには、帝国に対するシェラルドによる国内の反政府勢力への支援もみられた。これらのことは、帝国における統一暦172年元旦政変の要因となってしまう。一方、ペルシア共和国大統領モハンマド・アブディは救国の英雄となりその支持率は著しく上昇、掲げていた社会主義政策を完遂した上、今戦争での新ソ連への軍事通行権をそのまま維持することで、完全に新ソ連側の社会主義国家を建設した。また、この戦争中両国に武器を売りつけていたサンセリフ連合は金銭的に莫大な利益を得るが、帝国からは「死の商人」と悪評を得ることとなる。もっとも、この評価は事件によって覆されることとなるのだが。 Resources クリーニングラードによるペルシア共和国への供与兵器一覧 + ... Cp-98P軽戦車 Cp-98SPG自走砲 UCG-5E2アサルトライフル 統合国家ファントムによるペルシア共和国への供与兵器一覧 + ... EWL-MBT type 02 Mk.3 mod.2 主力戦車 EWL-TR-SPA-R type 02 Mk.1 mod.0 装輪自走ロケット砲 戦争統計 参戦国 帝国軍 ルクレフ朝ラス・エラセド連合帝国 ペルシア側連合軍 主戦国 ペルシア共和国 共同参戦国 新ソ連 兵力派遣国・兵器支援国 イットリカン民主主義国 クリーニングラード出張国 統合国家ファントム IRIS 支援国 帝政シェラルド 死の商人 サンセリフ
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まいくら